ソフトバンク(南海の後身)の東浜選手は実力一番だ。

ソフトバンクのドラフト1位東浜巨投手(22=亜大)がルーキーとして「ベースボールカード」一番乗りを果たした。26日発売の「スポーツカードマガジンNo・97」(ベースボールマガジン社)の付録で日本ハム大谷とともにカード“デビュー”することが分かった。早くも1枚500円の値段が聞かれるなど「お宝化」の勢いだ。
阪神藤浪でも巨人菅野でもない。東浜が、日本ハム大谷と2トップでルーキー代表に選ばれた。2月中旬にベースボールマガジン社が発売する、全新人選手をカード化した「ルーキーエディション」のプロモーションを兼ね、先行カード化。同社担当者は「活躍してくれる期待度が高く、新人王の可能性がある投手なので」と理由を説明した。雑誌には巻頭4ページでインタビューも掲載される。
東浜選手は女性にかわいいと評判ふぁし、アマ時代の実績も他を圧倒している。

銀の戦車

南海ホークスの歴史

 今の若い野球ファンの人は、南海ホークスという球団はご存知ではないかと思います。2008年の交流戦で福岡ソフトバンク・ホークスが南海ホークスの復刻ユニフォームを使用したことで、南海ホークスの存在を知られた人もいらっしゃるかも知れません。昭和20年代〜30年代にかけて、黄金時代を築いた球団でした。今の福岡ソフトバンク・ホークスの前身となる球団です。
 1938年に南海鉄道を親会社とする南海軍が結成されました。1938年3月に日本職業野球連盟に加盟して、秋季リーグから参戦しました。本拠地は大阪府堺市の堺大阪球場であった。戦前の戦績は今ひとつの感であった。
 そのチームが戦後、近畿グレートリングという名前から、1947年南海ホークスという名前の球団になった。この頃の監督は闘将鶴岡一人で、エースは別所昭であった。別所はこの年、沢村賞を受賞している。
 この頃も強いチームであったが、昭和30年代に入り、エース杉浦忠で、四番打者は野村克也であった。この時代が黄金時代と呼ばれている。グリーンのラインのユニフォームはスマートで格好が良かった。

南海ホークスの黄金時代、昭和30年代

 昭和30年代、大阪球場の南海対西鉄、南海対大毎のカードは入場券がなかなか手に入らず、ファンは早くから球場前に列を作り、入場券の発売を待っていた。
 南海は400フィート打線、西鉄は水爆打線の異名があった。パワーにはパワーの剛の対決時代であった。強打者だけではなく、好投手もずらりといた。南海だけでなく、パリーグの黄金時代でもあった。ファンは胸をときめかせ、又、白熱の勝負に緊張したものだった。
 それが、昭和40年代に入って、大毎が東京となり、やがてロッテに売却された。西鉄も経営不振から身売りをした。南海ホークスも創立50周年でプロ野球史にピリオドを打った。栄枯盛衰は世の常というが、南海ホークスの全盛期を知る者として実に寂しい。
 本拠地の大阪球場は取り壊されるが、杉浦投手、野村捕手他名脇役の選手の面々のプレーが頭の中で今も続いている。あのスマートなグリーンのラインのユニフォームと共に目に浮かんでくる。

南海ホークスの復刻ユニフォーム

 南海ホークスを引き継いだ福岡ソフトバンク・ホークスは2008年の交流戦の阪神タイガース戦では、ホークス誕生70周年及び福岡移転20周年記念事業の一環としてホームゲーム(5月24日、ヤフードーム)ではダイエー時代の復刻版ユニフォーム、ビジターゲーム(6月6日、甲子園)では南海時代の復刻版ユニフォームを夫々使用した。なお、ダイエーモデルを着用していた2003年、南海モデルだった1964年はともに、阪神を倒して日本シリーズを制覇している。又、同じく交流戦の中日ドラゴンズ戦においても6月12日のヤフードームでの試合にダイエー時代のユニフォームを着用することが追加決定された。福岡移転後のホークスが初めて日本シリーズを制覇したのが1999年で相手は中日だった。
また、南海時代のユニホームの復刻版は8月3・4日のオリックス戦(京セラドーム大阪 現状大阪における唯一のプロ野球団)でも着用された。南海の復刻モデル着用の試合では、応援団が南海時代の応援歌を演奏したり、「(相手球団)倒せーオ!」の掛け声が掛かる等された(オリックス戦では「近鉄倒せーオ!」とコールされた)。
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